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東京地方裁判所 平成9年(合わ)97号 判決

主文

被告人を懲役二年六月に処分する。

未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、平成八年一二月二日に前刑による服役を終了した後、一時大阪で土木作業員をしたこともあったが、平成九年三月一四日からは、父親のA(以下「A」ともいう。)が単身で居住する東京都北区桐ケ丘一丁目〈番地略〉△△荘二階一一号室に身を寄せていたものである。同月一九日夕刻、被告人は、同室においてAと二人で焼酎の水割りを飲み始めたが、飲み進むうち、Aは、被告人に対し、しっかりしろなどと説教を始め、やがて、先に鉄道事故で死亡した被告人の弟Bの納骨の件をめぐっていさかいとなり、Aは、午後六時半過ぎころ、不満そうにぶつぶつ言って、同室から出て行ってしまった。そこで、被告人は、しばらく一人で飲酒を続けた上、午後七時三〇分ころ、布団に入り眠りに就いたが、同日午後一一時過ぎころ、帰宅したAから左肩を叩いて起こされたので、上半身を起こそうとした。するとそのとき、Aから、やにわに棒状の凶器で左肩背部を深く刺され、うずくまるようになったところを更に左後頭部に切り付けられた。被告人は、突然生じた予想外の事態に驚き、Aの様子を注視すると、同人は、刃体の長さ約一〇センチメートルの果物ナイフを左手に持って立っており、今受けた攻撃は、この果物ナイフによるものであることがわかり、ここにおいて被告人は、いたく憤激するとともに、このままでは殺されてしまうとの危険を感じた。

(罪となるべき事実)

かくして被告人は、平成九年三月一九日午後一一時過ぎころ、前記△△荘二階一一号室において、自らの身を守るため直ちにA(当時六五歳)に対して反撃しようと決意し、その頬を数回平手打ちするとともに、その顔面に数回頭突きをして同人をその場に転倒させ、さらに仰向けに倒れてほとんど動かないような状態にある同人の胸部ないし腹部を数回踏みつけるように強く足蹴にするなどの暴行を加え、よって、同人に下大静脈断裂等の傷害を負わせ、そのころ同所において、同人を右の足蹴に起因する下大静脈断裂に基づく失血により死亡させたものである。被告人の右行為は、Aによる急迫不正の侵害に対して自己の権利を防衛するためしたものであったが、防衛の程度を超えたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(補足説明)

一  弁護人は、被告人の本件行為は、Aの攻撃に対する防衛行為であって、過剰防衛にとどまらず、全体として正当防衛が成立するとも主張している。しかしながら、被告人の反撃行為は、前記認定のとおりであって、Aが仰向けに転倒してほとんど動かないような状態になってからも、執拗かつ強力に続けられており、Aの攻撃に対する反撃としては、その防衛に必要は程度を超えていることが明らかであるから、正当防衛の主張は採用できない。

二  他方、検察官は、本件では正当防衛はもとより、過剰防衛も成立しない旨主張する。

まず、検察官は、被告人の捜査段階の供述に基づき、Aは仰向けに転倒した時点で果物ナイフを手放しているので、その時点で急迫不正の侵害が消失していたと主張する。しかしながら、被告人は、当公判廷において、一連の暴行を加えた後でテレビのリモコンスイッチなどをAの方へ投げたときに、同人の手が開いていてそばに果物ナイフがあるのに初めて気付いた旨供述している。もっとも、被告人の検察官調書には、被告人がAの胸部等を足蹴にする前の時点で、同人は果物ナイフを手から放し、倒れた同人の左手のすぐそばに果物ナイフが落ちているのが見えたと思う旨の記載があるが、被告人の警察官調書には、これとは異なり、犯行の翌朝刃先だけの果物ナイフとそのさやがあるのに気付いたなどとの記載があって、その供述には一貫性がなく、また検察官調書の記載自体も、Aが果物ナイフを手放した時期を断定した供述とは解されないのであって、被告人の公判供述を排斥し得るものとは認められない。したがって、検察官が主張する時点において、Aが果物ナイフを手放していたとは認定できないから、所論は前提を欠き、採用できない。

次に、検察官は、被告人の公判供述によっても、被告人がAに対し攻撃を開始した時点で、同人が果物ナイフで被告人を攻撃するような状況はなく、Aが転倒した後は、完全に急迫不正の侵害が消失していたとも主張する。しかしながら、Aによる攻撃の経緯とその態様に照らせば、果物ナイフを手にしていた同人が更に加害に出るおそれは多分にあったというべきであり、転倒後においては、そのおそれは大幅に減少したとみられるが、Aはなお果物ナイフを手にしていたとみる余地があることは前記のとおりであり、同人が日頃から飲酒すると粗暴になる傾向があったことや、本件が短時間のうちに終わった連続的な事態であって、転倒後の時点以降についてのみ他と切り離して分断的に異なった評価を加えるのは必ずしも相当ではないことをも考慮すれば、そのおそれが完全に消失していたと断定するにはなお足りないものが残る。したがって、右所論も採用することができない。

さらに、検察官は、Aが転倒した後の時点で加えられた攻撃は、防衛意思によるものではなく、新たな攻撃意思の下になされた加害行為であると主張する。しかしながら、被告人による前記認定の攻撃は、就寝中突然身体の枢要部を刃物で刺されるなどしたという状況の下で短時間のうちに連続的になされたものであること、被告人がその時点における内心について、自分がわからない状態だった、必死で乱暴をしてしまった、カッとなった勢いでそのまま攻撃を続けたなどと供述していることに照らせば、被告人がその時点で反撃行為とは別個に新たな攻撃意思の下で加害行為に出たとみるのは相当でなく、むしろ、冷静さを取り戻す余裕もないまま、当初の防衛意思を継承して攻撃を続けたものと認めるのが相当であるから、所論のようには解されない。

三  以上のとおりであって、被告人の本件行為は、正当防衛として全面的に正当化されるものではなく、また防衛とは無関係な加害行為と目すべきものでもなく、弁護人が予備的に主張するように、全体として過剰防衛に当たるものというべきであるから、前判示のとおり認定した次第である。

(累犯前科)

被告人は、平成七年九月二一日東京地方裁判所で覚せい剤取締法違反罪により懲役一年四月に処せられ、平成八年一二月二日右刑の執行を受け終わったものであって、右事実は、右判決書謄本及び検察事務官作成の前科調書によってこれを認める。

(適用法令)

罰 条 刑法二〇五条

累犯加重 刑法五六条一項、五七条、一四条

未決勾留日数算入 刑法二一条

訴訟費用の不負担 刑事訴訟法一八一条一項ただし書

(量刑の理由)

本件は、父親に対し、平手打ちや頭突きをしたり足蹴にしたりするなどの暴行を加えた結果、下大静脈断裂に基づく失血により同人を死亡させたという事案であるが、そのきっかけは、被害者が就寝中で全く無防備な状態にある被告人に対し、突然刃物で攻撃を加えてきたことにある。被告人は、判示果物ナイフによって、長さ約二・五センチメートル、創口からの深さ約一一センチメートル(ただし、皮膚からの深さは約一ないし一・五センチメートル)の左肩背部刺創及び長さ約二センチメートル、深さ約一センチメートルの左後頭部切創の傷害を負わされている。このような理不尽な行動に及んだ被害者の落ち度は重大であり、被告人が自分の身を守るため反撃すること自体は何ら非難されるべきではないが、被告人が現に行った反撃の内容を具体的にみると、被告人は被害者が転倒した後も前記認定のとおり激しい暴行を続けており、行き過ぎがあったものといわざるを得ない。発生した結果は重大であり、被告人がこれまでに暴行、傷害等による四件の類似前科を有していることも併せ考えると、その刑責を軽視することはできない。しかし、他方、被告人は翌朝になって倒れたまま動かない被害者の異常に気付き、犯行から約七時間経過していたとはいえ、自ら最寄の病院に赴き、被害者の救護を依頼している。また、自分の手で父親を死に至らしめたことに衝撃を受け、本件犯行に及んだことを後悔し、反省の態度を示している。そこで、本件がまずもって急迫不正の侵害に対してなされた過剰防衛の事案であることに加え、右のような情状を被告人のために利益に斟酌し、主文の刑を量定した次第である(求刑-懲役五年)

(裁判長裁判官 永井敏雄 裁判官 上田哲 裁判官 長瀬敬昭)

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